仕事復帰

2008年2月6日
今日から職場に復帰した。本当は告別式が終わってから1週間くらい休むらしいんだけど、今回は式までが1週間くらいあったので式が終わって後処理も終わったしという感じで出勤したけど。

香典返しの品をもって行ったら職場のエレベーターで会った知り合いに「何かの景品?」とか言われて「・・・母が亡くなったので・・・」と言って言葉が詰まってしまった。別に普通に香典返しですよ、って言えばいいのに、聞いてきた人もバツが悪そうに「失礼しました」って。いやあ、悪いことしたなあ。

そして職場で焼香に来てくれた人や香典をくれた人に挨拶をしてまわって。

義理で出してくれた人は本当に機械的なんだけど、中には本当に心配してくれていたんだろうなあという人もいて。社長に弔電をいただいたお礼に行ったら、「(おかんがそんな状態だったなんて)知らなかったよ」って。そりゃあ、社長はそんなこと知らんわなあ。でも社長の弔電って親戚の間では結構衝撃だったらしいのでありがたかったけどね。

仕事復帰してメールをみたら200件を越えるメールが。全部読めるはずもなく。変なPRメールを消したりしつつ、それでも100件以上残っていて。これはしばらくかかりそうだ。

私がいない間、異動してきたばかりの次席がだいぶがんばってくれていたらしい。本当はフォローすべき私がいなくて本当に申し訳なかったなあ。

今日はおとんのことも気になるから早く帰ろうと思っていたけど結局なんだかんだと遅くなり。やっぱり今の職場って嫌いだわあ。少しは気をつかえっちゅーの。

いまさら

2008年2月5日
昨日、母の姪から電話があって。子どもが小さくて通夜・送別式には行けなかったけど、焼香しに行きたいといってきて。こういうのって断れるのものではないと思うし、私もどうせ家にいるからいいやと思って待っていた。

そして来た私の従姉妹。もう30年近くあっていない従姉妹。そんな人にいろいろ言われてもねえというのも正直あり。

彼女の話し方は叔母さんそっくりで。

母の弟の家族ではあるけど、母自身はさておき、父も私もあまり付き合いが深い方ではなかったので、正直いまさら何さという気分ではあったのだけど。

でも従姉妹は「落ち着いたら遊びにきて。ご飯でも食べよう」とかいう。

いやあ、私結構忙しいんですけど。

とは言えないけど、この従姉妹も父の弟の娘もなんだかちょっと「は?」という感じなのでちょっと困ってしまう。

そして母が亡くなる前にもう近くに来ていたくせにいまさら「近いんでよろしく」とか言われてもねえという気分。私って冷たいかしら。

母の告別式

2008年2月4日
今日は母の告別式。昨日の雪のこともあったけど、ちょっと早めに家を出て。

早く着きすぎてどうしようかと思っていたら、なんだかんだと打ち合わせとかしていたら時間も過ぎて。

告別式では昨日と同じ席に座り、ちょっと眠くて意識が遠のくこともありながら焼香等をすませ、親戚以外の一般の弔問客を昨日と同様に見ていた。

上司来てる。ああ、部下も来てる。あれ?先輩(♀)?

そう、その先輩は私が本社に来た時からずっと世話になっていた2つ上の先輩で。昨日の通夜も来ていたけど、今日も来てくれている。

そしてありがたいと思う気持ちやらもあったけど、目をつぶると思い出される母の生前の姿。次から次へと涙が襲ってきて。喪服と一緒に買った黒いハンカチが大活躍で。

そしてお坊さんの読経が済んで、母の棺に花を入れる準備をしているときに先輩が私の肩をとんとんとたたいた。

つらかったね。大丈夫?

そういいながら先輩も涙ぐんでいて。ついつい私もうわーっと泣いてしまった。きっと気が緩んだんだろうな。

待っている間に父に上司を紹介して。直の上司が「いつもりんさんにはよくやってもらってます」とか言っているのを聞いて「うそつけ、こら#」とか思いながらもこらえ。

そして母の棺に花やら思い出の品やらを入れ込む時間がきて。母がリハビリ中に作った作品やら母宛に来た手紙やらを入れて。そして父の挨拶。脳腫瘍の手術後の2年半がなければ幸せな人生だったと思うと涙ながらに話をした父。私はもう涙をこらえられなかった。

そして焼き場に歩いていって。坊さんがお経を唱えながら母の棺が焼き場に入っていって。ああ、お母さんの今生の形がもうなくなるのだなあ。

それから1時間近くお菓子をつまみながら待つ。坊さんの前に座ってしまい、適度に何かお相手をしなければと思っていたら父は自分の元上司のところに行っちゃうし。ったく#それから坊さんとの話の接点を探りつつ、「ああ、そうなんですか〜、えええ〜そうなんですね〜」とか言ってみたり。最後はバレンタインのお返しの話を相談されて終わった、なんじゃそりゃ。

そして焼きあがった母の骨を拾いに行った。焼きあがった骨を事務的にほうきみたいなものでちりとりに集めてそれを拾わされて。前に伯父の骨を拾ったときは骨をみんなでバケツリレーみたいにやった記憶があったけど、今回は2人1組でつぼに入れてくださいみたいな。えええ?とか思いつつ、最後に母の頭蓋骨を見たらちょっと色がついていて。これって病気のせいだったのかなあとか思いつつ。

そして初七日と四十九日の前倒し法要をしてもらって。それから精進落としの振る舞いがあって。私は普通にご飯を食べようと思ったら父が皆さんのところをまわると言うから逆周りで私もまわって。知らない人もいる中で適度に愛想を振りまきつつ、父がもう回り終えてご飯を食べてるのになぜか酔っ払いおやじにつかまってご飯を食べられない私がいて。くうう、と思っていたら助け舟を出してくれた父の元上司。さすが。それからえらい勢いでかっ込んで。

すべて終わってから母を連れて帰るにあたってタクシー2台で帰ることに。昨日と同じように北海道からきている親戚は私が、そして父の弟夫婦は父の方で対応して。で、私の方が先に車に乗ったのだけど運転手がちょっとおかしい人で。気がふれてるようなことも言っていたから適度に愛想をふりまきつつ、でも高速で50キロってどうよとかも思いつつ、でも混んでることもなく後ろからせっつかれることもなく。後から聞いた話ではこれって仏様の導きがあるからとかいうことらしいけど。

そして家に着いたらもう後発の父の方が先についていた。どこで抜かされたのやら。

そしてお茶やらご飯やらに気をつかって。そして夜には今までお互いに人見知りをしていた父の兄の嫁や父の姉・兄と話もできるようになり。まあ、よっぱらっちゃえばこっちのもんだからねえ。

母の通夜

2008年2月3日
今日は母の通夜だった。

朝からボタボタ降る雪をうらめしく横目で見ながら通夜の準備をする。今日は遠方に住む親戚が上京してくれる日だったけど、飛行機かなり遅れていて。いろいろ気になることもありつつ、母の湯灌の儀があって。湯灌の儀って知らなかったんだけど、死者の体をきれいにするというもので、地方によっては体を拭くだけのところもあるらしいけど、今回はお風呂に入れてくれて。

入院してからずっとお風呂に入れてもらえなかった母。

父はそれが非常に心残りだったようで、湯灌の儀で体や頭まで洗ってもらえるというのを聞いて心底喜んでいた。母の魂はもうここにはないのに・・・

そして始まった湯灌の儀。

裸身が見えないように大きなバスタオルで上手に隠して体を洗ってもらい頭も洗ってもらい。母の頭をドライヤーで乾かしているときにふとよみがえった記憶。

母がまだ不自由ながら自分で歩けていた頃、私が母をお風呂に入れて頭も体も洗っていて。そしてお風呂からあがったら風邪をひかないようにすぐドライヤーで頭を乾かしていたら、母の髪の毛がふわふわになって。そして「ああ、いいにおいだ」と母の髪の毛の匂いをかいだら喜んだ母。そして「お父さんにもいい匂いをかがせてあげなよ」と私が言ったらそのまま父のところに行って「いい匂い?」とか聞いていた母。

その頃はまだ幸せだった。そしてそんなことを思い出して一人で泣いてしまった。

親戚もいたのに恥ずかしい・・・でももう抑えられなくて。鼻をぐすぐすしながら母の顔を手ぬぐいでぬぐったり、母の旅装束を調えたり。結構つらかった。

そして死に化粧をしてもらった母。父は病院でひどい目にあって残った口のがさがさをずっときにしていたけど、上手にカバーしてくれた。父は嬉しくて涙ぐんでいた。

普段化粧っけのなかった母。きれいだよ、お母さん。

そして納棺されて先に家を出た母。もうこの家に母はいない。親戚がいなかったらわーわー泣いたかも。自分を制しつつ、お通夜の準備を整えて。

母のためにそろえた喪服。そして母からもらった数珠。まさか自分のために使われるとは思わなかっただろうに。

そして雪の中おそるおそる出かけた。何もこんな日にふらなくてもいいのに・・・と思いつつ、北海道生まれの母が雪を見たくて降らせたんじゃないかという叔父さんの言葉にはっとしたりして。

そして会場について。事前の打ち合わせやらいろいろして。そしてせわしなく始まった通夜。こんな雪降りだし、思ったよりも来ないだろうと思っていたら結構たくさんの人が来てくれた。

お焼香を親族からして、一般の人たちの番になったときに一人一人に頭を下げながら、ああ、あの人きてくれた、ええ?この人が来てくれた?とか思っていたらなんだか嬉しくなってうるうるきてしまった。

通夜が終わってちょっとした晩餐の時、皆さんの接待をしなくちゃいけないかと思ってまわっていたら結局食べ損なって。しかも父の職場関係の変なおっさんにつかまってひどい目にあった。どうして私は話の長い人に捕まりがちなんだろう・・・。

そして家に帰って空腹だった私はおにぎりをつまみつつ、遠方からきた親戚に人見知り。それでもおかんだったらどうするだろうというのを自然に考えてこなしつつ。

疲れた1日だった。

母の一生

2008年2月2日
母の通夜を明日に控え、今日も親戚やら母の友達やらが来てくれた。

まず来たのは母の弟家族。そして少ししたら来た母の叔母と母の従姉妹。そして母の入院友達夫婦がきて。

そしたら母の弟家族は10分もしないのに帰ってしまった。

母は弟とあまり仲良くなかったらしい。弟はどう感じてるかは知らない。でも母は祖母が叔父ばかりをかわいがっていたのもあり、家に自分の居場所がなかったって前に言っていたことがあった。家に居場所のなかった母は叔母の家に行ったり、友達の家に行ったりして家にあまりいなかったそうだ。

そして物心ついた時から知っていた母の日記の存在。

母は手帳にその日のことを5行くらいでいろいろ書き込んでいた。それはそれは何事も三日坊主な母にしては10年以上も続いた日記で。母が脳腫瘍の手術をした後くらいからこの手帳は母の手では処分できないとはわかっていたけど。

もっと若かった頃から母の日記は盗み読みしたことはあった。父や私の悪口が書いてあってむかついたのも懐かしい。そして今、母のそばでその日記を読んでいて、これは父には読ませちゃいけない、これは誰にも読ませちゃいけない、私だけが母の思いを理解して処分しようと思った。

それにはもちろん私のことも書いてある。「バカ娘」っていくつ書いてあったろう。

でも、これは私が責任をもって処分しよう。親戚のことも包み隠さず本音を書いてあって、これは母が亡くなった後何度も来てくれた叔母や80も過ぎたのにわざわざ来てくれた大叔父の悪口も満載で。でも母の死を悼んでくれている人たちにあえて本音を教える必要もなく。そして母の死を悲しんでる父にあえて変なことを言う必要もないだろう。

お母さん、私はお母さんにとっては不出来な娘だったし相性も悪かった。私はお母さんのことをずっとうらんできたし、お母さんも日記に「自分の娘だけど怖い」って書いてあったくらいな今生の関係だった。それは悲しいことだけど、縁あってあなたの娘として生まれてきたから、あなたの後始末は私が責任をもってします。安心して。みんなの中にあなたの思い出は美しく生きると思う。でも、日記にしか本音をかけなかったあなたはなんだかかわいそうで。

小さい頃は早くこの家族から独立したいと思って早く結婚して家を出たかった母。

そして自分の家庭を持ったら持ったで父の親戚のことで苦労したり、父の浮気癖で苦労したりして、その上娘は娘であなたと同じように家にいることに苦痛を感じて早く独立したいと考えていた上に、同居したらしたで不倫問題で悩んだり、手術後に体が不自由になったら娘にひどい仕打ちを受けて。あなたの人生、いつも逃げ出したいものだったんでしょう。だって今あなたの遺体はそばにいるけど、あなたの気配を私は感じない。あなたはやっと自由になってどこか好き勝手行ってるんでしょう。

やっと自由になれたね。今生はつらいことが多かったお母さん、次の人生は幸せになれるようにいまさら祈ってます。そしてもうお母さんの魂なんて微塵もないこの遺体を責任もってきちんと葬儀します。

お母さん、私たちは本当にずっとわかりあえなかった。悲しいことだけど、でもあなたのことは忘れないし、ちゃんと後始末します。安心して。

母へのはなむけ

2008年2月1日
今日も親戚がきたりしていてばたばたしていたらきたメール。
庶務のチーフからのメールで。

庶務チーフ「お疲れ様です。(大丈夫でしょうか?)ところでお通夜、告別式ですが、告別式に(うちの部署の)ナンバー2、課長、庶務補佐が弔問します。私はお通夜に参列予定です。その際、社内等から預かった香典も持参させていただきます。よろしくお願いいたします。以上、情報まで。」
私「メールありがとう。こっちは親戚対応が疲れるけど葬式の準備等は葬儀屋がやってくれるし客がいない間はぼーっとしている感じ。今はそれでも気が張ってるけど終わってからの方がキツイかもね・・・いろいろお手数かけてます。告別式の件恐縮だなあ・・・あなたもせっかくの休みの日にすみません。告別式の次の日も後処理がありそうなので来週の水曜日から出勤しようかと思ってます。また改めて連絡します。よろしくお願いします。」
庶務チーフ「前の副社長も告別式に参列するとのこと。退職したT氏も今のところ参列予定。以上H氏からの情報です。」

えええ。何だそれ。

動揺した私は慌てて庶務チーフに電話をした。そしたら、結構お偉方が来て下さるとか、参列者が結構いるとか、香典も結構集まってるとか言っていて。「調整チーフってどんだけ偉いんだよ。俺レベルは行っちゃいけないのかと思ったよ」とか言われて思わず笑ってしまった。前職の時に偉い人とからむ仕事が多かったからその関係でなんだろうな。何となくちゃかされながらもありがたいなあと思って。

私が母の関係で仕事に関しておろそかになるから異動させてくれとお願いした時には適当にお茶を濁されたのは正直いまだにひっかかってるし、直の上司はフォローするからってフォローしてもらった覚えは一つもない。でもそうやって偉い人が来てくれたり、もし来れなかったら弔電を打つと言っていたということを聞くだけでも本当にうれしい。私がやってきたことって間違ってなかったんだと思う。

お母さん、娘はいつも仕事仕事でお母さんのことあまり大事にできなかったけど、でもちゃんと認めてもらえたよ。私が一番つらい時にお母さんが助けてくれたことが生きてるよ。お母さん、ありがとう。そして偉い人が参列することで少しでも母のはなむけになればいいな。

正装

2008年1月31日コメント (2)
葬式をあげるにあたって、ものの本を読んでいたら、身内は正装をするとか書いてあって。

なになに?正装って!!

とか思いつつ、そろそろいい年だから正装も持っていた方がいいかと思って買いに町まででかけた。

デパートに行ったらなんだか混んでて。入学式のフォーマルウェア対応をしていたらしいけど、店員がいないなあと思いつつ、声をかけたら奥にいた人が出てきてくれた。

その人が結構いい人で、親身になって相談にのってくれて(商売だから当然か)身内だからあまり光らない素材の方がいいですよ、かばんはお祝いごとと兼ねられるものもありますよ、くつは黒ければいいけれど布の方が無難ですよ、真珠は若いんだから白い方が清楚に見えていいですよ、とかいろいろ言ってくれた。それって結構ありがたくって。

当初は服とかばんだけと思っていたけど、靴とペンダントとハンカチまで買って。

まあ、いい年だからこれくらいは標準装備だよなあ。

でもものの本を読まなかったら普段職場に着て行ってるパンツスーツでいいかと思っていたくらいなので、本当にものの本を読んでよかった・・・。

そして、夜にきた上司からのメールがまた微妙で。

気の張りようが違う

2008年1月30日
今日は父の叔父夫婦と父の弟夫婦と母の叔母が来てくれた。

父の叔父夫婦にはかなりかわいがってもらったけど、子どもながらにあまり心を許してなかったところがあって。

それでも30も過ぎたしだいぶ接待も上手になってきた私。父の叔父夫婦の対応も結構そつなくこなし。そしてその叔父夫婦が帰って残ったのが母の叔母。とたんになんだか気が楽になっている自分がいて。

あらら、なんともあからさまな。

その後来た父の弟夫婦もすごく良くしてくれるし、叔母も「何でも遠慮なく言って」といってくれるけどやっぱりちょっと構えてしまう自分がいて。父方って結構構えてしまいがち。これってなんだろうなあ。母の叔母の家に遊びに行くと帰りたくないとぐずったという私。たぶん家に帰ってもおかんと二人でつまらないから叔母ちゃんのところにいたかったんだろうな。でも父方の親戚でそういうぐずりかたをしたことはたぶんない。その辺は子どもながらに空気や人間性を読んでいたんだろうな。
昨日は近くにいる親戚を含め7人来てくれて。

母が亡くなった当日にそれだけ多く集まってくれるって本当に有難いことなんだろうけど、普段そんなに客人が来ない家なので私は結構気疲れしていたのだけど。

父は昨日結構飲んでいて。今日は酒を飲みたくないというくらいの二日酔い?

二日酔いと言いつつ、実は結構がっくりきてるらしくて。

母の顔をわざわざのせているキレをどけて何度も見たり、母の顔を何度もなぜてみたり。

正直言って、娘としても父が母を愛しているとは思っていなかった。父は何回か浮気していたみたいだし、いつも喧嘩していたし、相性の悪い夫婦だと子どもながらに思っていたし、この父母を見ていたからこそ、結婚に甘い期待を持たないようになったともいえて。

でも、父は結構がっくりきている。

これは愛か?いや、父本人も言っていたけど情があるからって。そう、結婚した当初は愛情があったけど、そのうち愛がなくなって情でつながってるんだよと言ったのは一番最初にいた部署の先輩の言葉。父もそれだったのかな。

連れ合いをなくすと残った方もがっくりくるとは聞いていた。でも父はそうあってほしくない。もう少し私のそばにいてよ、お父さん。

人間が死んだ後は

2008年1月28日
母の死をある程度告知されていた(というか病院の処置も怪しかったが)父は、母の葬式が遠くないことを覚悟して、葬儀屋の割引がきく会員になると言っていた。その申込用紙を土曜日にポストに投函したらしいので、おそらく今日には届くかというところで母が死んでしまった。

これは割引がきかないかと覚悟していたんだけど・・・
(結果的には葬儀屋は病院とは打って変わって非常に親切な上に内部的な手続きの問題だから会員として扱います(割引します)と言ってくれた。ありがとうありがとう。助かります・・・)

看護士に早く葬儀屋に電話しろと言われて、とりあえず連絡をとって遺体を運んでもらう手はずを整えて。私は一足先に家に帰って母の遺体を寝かせる場所を確保して。母は9時半くらいに無言の帰宅をした。

葬儀屋はてきぱきと、でも丁寧に母の遺体や寝具等を整えて。

とりあえず2人組みできていた人たちは運びやさんだったらしく、母の寝具等のほかに、お線香をあげるための台も組み立ててお線香を立てるツボやらろうそく台やらきれいに載せて。

実際の葬式等についての担当である営業さんが来る前に、団子の作り方やら山盛りご飯の作り方を教わって。

団子って自分で作るんだ。

そのときに、「100ccの水を入れてください。それ以上いれたら手に負えなくなります」と大真面目に言っていた担当さんの言い方がなんだかおかしくて。その人が帰った後に父とその話をして笑っていたら、どうやら100cc以上入れてしまったようで本当に手に負えなくなった。そこから父が片栗粉とか入れて何とか丸めたものの、できあがりはそれはそれはイビツな団子で。

まあ、いいよね。味があるということで。

とか言い訳しつつ。でも山盛りご飯は上手にできた(誰でもできるか)

葬式の出し方って全然わからないからどうするんだろうって正直不安だったけど、葬儀屋がてきぱき説明をしてくれつつ1つずつ決めていった。区役所への死亡届も出してくれるなど、葬儀屋がほとんどやってくれるから楽チン。後は予算との問題で。

華美になりすぎずみすぼらしくならない程度のものだったはずなんだけど、見積もり額がなんと200万ちょっと。

坊さんの読経とかって高いんだなー。通夜と告別式であわせて30万近くになっていた。お車代とかもあるんだって。

いちいち「へー」とか思いつつ、人が生きるのも死ぬのも金がかかるんだなーって変なところで関心したりして。

職場にちょこちょこ連絡を入れていたら、何かあったら手伝うから、と言ってくれた同僚と先輩。先輩にはセカンドオピニオンの件でもいろいろ面倒をかけたのにすごく心配してくれて嬉しかった。そして上司からと先輩からと仲良しのバイトさんからメールがきた。みんな何かあれば手伝うと言ってくれたけど、上司の言葉だけは素直に喜べず。

私が母のことで大変な時にフォローするする!って張り切っていた割には何もしてくれないどころか自分の仕事もさぼっていたのが私としてはいまだに許せないんだろう。

お願いしたいことは異動してきたばかりの次席のフォローくらいですかねー

ってメールの返信をしたかったけどできなかった小心者な私。

そして昼くらいには父の弟夫婦、少しして母の叔母夫婦、夕方には母の従姉妹、夜には母の従姉妹の旦那さんと母の従兄弟、父の職場の大先輩がやってきて狭い部屋がぎゅうぎゅうだった。

こんなに人が集まるってないからなあ。

スリッパも2足しかないし、最初はつまむものもないからお茶ばっかり出していたけど、少し気持ちが落ち着いてからお茶菓子を買ってきたりコーヒーの粉やクリープ、砂糖なんかを買いに行って(何しろ我が家はブラック派なので)。

夜までみんないてくれたので、奮発していいお寿司を2台頼んで。1台8千円だから結構いい寿司だったんだけど、みんな美味しい言ってくれたし、母の死の一報を聞いてその日のうちに駆けつけてくれたのが有難かったのでいいかと。

父の弟の奥さんや、母の従姉妹がすごく気を遣ってくれたのが嬉しかった。今まで親戚なんて、って別になんとも思っていなかったけど、血が少しでもつながっていたり、つながってなくても縁あって親戚になった人たちの結束ってありがたいなあと都会っ子の私ですら思った1日だった。

あっけない最期

2008年1月28日
今朝の6時にかかってきた電話。朝かかってくる電話なんてろくでもない話だろうし、しかも昨日の母の様子が変だったからまさかと思ったら、案の定。

父が電話に出て、電話の後、私の部屋の扉ごしに言った「心肺停止だそうだ」

最初ぴんとこなかった。いよいよやばいから来てくれって話なんだろうと寝ぼけつつ思っていたら、ようはもう死んでしまったってことなのよね。

そこから慌てて身支度を整えて約30分後に家を出た。

息が白くなるほどの寒さの中、父ととぼとぼ駅まで歩く。駅からはタクシーで病院へ。父も私もまだぴんときていないながらも病室へ。

看護士が何やら心臓が止まっているよというのを機械を使って示してるけどもうどうでもいい。ようは死んでるんだろうと。

そこから若い医者が目に光をあてたり、呼吸をしていないことをわざとらしく確認して「6時55分、死亡を確認しました」と一言。

その後、医者と看護士が病室を少し出た隙に父が母の手をさわったところ冷たいという。私も触ってみたら、昨日の40度近く熱を出していた母の手とは思えない冷たさ。

父いわく、きっと夜中に息を引き取っていたのだけど、病院側で放置していたのだろうと。

たぶん、ここの病院ならありえる。確かに夜中の2時とか3時に電話がかかってきてもねえというのはあるけど、7時近くにすっかり冷たくなった母の死亡を確認されてもねえというのが家族の率直な気持ちだと思うのよね。

そこから母の体をきれいにしてくれたのはいいけど、終わった後に看護士が言った言葉。「葬儀屋に早速連絡してください」

金づるにもならない患者に提供するベッドはありません

と言いたげな態度。先日、セカンドオピニオンを受けさせることを病院に言ったときに、我が家の財政状況も苦しいのでいつまでも病院に入れておけません。いずれは家に引き取るつもりですと言ったのでだろうと思うけど、なんともあからさまなんだろう。

この病院には本当にびっくりさせられることが多かった。

母が痙攣発作を起こしたのが10月14日。そして3週間くらいで老人保健センターに移動してきて、リハビリを3ヶ月したら家に迎える予定だった。なのに3ヵ月後に遺体になって帰ってきた。この老人保健センターにいれたばっかりに。誤嚥させて肺炎にかからせ、しまいには誤嚥の恐れがあるからご飯を食べさせられないとか言い出し、延命治療を受けさせろと迫ったこの病院。そして拒否したらあっという間にご臨終か。

あえてこの病院の名前は出しません。営業妨害とか言われてもおもしろくないし。でも、言えることは、地元の個人病院がやたら規模がでかくて併設病院とかがじゃんじゃんできているようだと怪しい。金儲け主義の病院につかまって根こそぎむしりとられる人が少しでも減ることを祈るのみ。

そうそう、ここの病院は看護士も最悪だった。医師に対して偉そうな口ぶりをするどころか患者の扱いもひどいもので、患者の家族がいても雑な処置ばかり。すべての看護士がナイチンゲールでいろとは言わないけど、あまりにも対人間ということを忘れすぎではありませんか、あなた方。あなた方の大切な人に対してもあなた方はそういう処置をできるのですか。

この病院とここの看護士を更生させようとは思わない。ただただ、こんなひどい病院にはつかまらないようにみなさんは気をつけてください・・・。

ヤマ

2008年1月27日
今日も職場に行ってから病院へ。

母のところに行ったら入ってきた看護士。感じの悪い中でも特に感じの悪い看護士だったから正直いやだなあという顔をしていたと思うのだけど、そんな中いろいろ話しかけてきて。

あら珍しい

とか思っていたら他の看護士もやってきて、聞いたら熱があるから布団はかけるなと私にいう。

面倒だったので「ああ、そうですか」と答えておいたけど、その感じの悪い看護士が「私がやったのよ、ごめんなさ〜い」って。

聞けば昨日熱が39度あったという。そして今計ったら40度ちょっと。手をさわったらチュンチュンしている。そんな中布団をかけるなと言った看護士が氷枕を作ってきて背中にあててみて。これで下がらないようならわきの下とかに入れてみます、とか言ってくれた。

お、この人はまだまともな方か?

そんな熱の対応をしている間も感じの悪い看護士は母の鼻にぎゅうぎゅう管を入れ込んで(痰を吸引していた?)乱暴この上ない。母はびくっと体を動かして右手をブルブルさせていた。

こんな扱いをずっと受けてきたのか

そう思ったら腹が立つやら悲しいやら情けないやら。

そして看護士が外してから母に「大きな病院のセカンドオピニオンが終わったら家に帰ろう。この病院がこんなひどい病院だと気づくのが遅かった、ごめん。来週には帰れるから何とか熱が下がるよう頑張って」と言ったら、何を言っても反応のない母の目から少量の涙が頬をつたった。ああ、お母さんわかったの?私の言ったことわかったの??

脳腫瘍の手術をしたときには、左半身を麻痺させられ、誰が身体障害者にしてくれと頼んだのかと医者をうらんだ。

そして痙攣発作を起こした時には、そんな発作が起こる可能性なんて聞かされてなかったから、改めてインフォームドコンセントのなさにあきれた。

そして発作がおさまったからと連れて行った老人保健センターでは会話もできたのに会話もできない、ご飯も食べられない重症患者にされ、誰が悪化させろとお願いしたのかと悔やみ。

いったいどこで判断を誤ったのだろう。

お母さん、家に帰りたがっていたのにリハビリをちゃんとしないと駄目って突き放してしまったあの時にこうなることが決まってしまったんだろうか。親不孝な娘でごめん。でももう少ししたら大きな病院でセカンドオピニオン受けられるからもう少し頑張って。結果がどうあれもう帰ろう。

話の長い人

2008年1月26日
今週は、異動してきたばかりの次席のフォローで思ったよりも自分の仕事がこなせてなかったから、休日出勤して。

きらいな次席がいなくなったから安心して休日出勤できるようになったというのもあるけど。

病状急変

2008年1月25日
今日も何となく忙しい日だった。ちょっと打ち合わせで外したらちょっと難ありな仕事で次席が困っていて。詳細な状況を把握している人がまわりに誰もいなかったから、それから事実確認をしたものの、その件を受けてからもうすでに2時間以上経過していて。大した急ぎの案件じゃなかったから良かったけど、こういう難ありな仕事は私がいない時は補佐がフォローすべきなのに、また打ち合わせと称して無駄な仕事しているし。

いらいらいら

そして夕方父からの電話が留守電に入っていた。どうやら母の状態がよくないという。父は仕事が終わってから病院に行くと言っていたけどどうにも胸騒ぎがして。

で、とっとと帰ろうかと思っていたら、補佐が次席につまらない仕事をふっていて。ようは、社内の関係部署に事実誤認の確認依頼をするという大した案件ではないのだけど、そういう仕事に慣れていない次席にやらせるんだったらもっと早く言えばいいのに、時間外になってから言ってきて。

りんさんもフォローしてください。必要があれば僕もフォローします

補佐の調整の仕方はセンスがないので、補佐に頼むくらいだったら自分でフォローした方がましと考えて、でも次席が飲み会を控えていたので早く終わらせてあげたいと思って一生懸命手伝った。

やれやれ、やっと終わった。

そう思って、帰ろうと思ったら「りんさん、僕そろそろ帰ろうと思うんですよ〜」と能天気な補佐。

ぷちっ

軽くきれて「私も帰りたいんですけど」と言ったら、「じゃあ、お互いに帰りましょう」くらいなことを言ってきた補佐。

ぷちぷちっ

今、待機がかかってる状況って知らないんですか###

頭にきたので、同僚に待機をお願いしつつ、補佐に「母の状態がよくないので帰りたいんですけど。待機は同僚にお願いしました」と言ったら、「それは優先してもらって。僕が待機するからいいよ」って。

私は異動がなくなった代わりに待機要員から外されていることをもうきれいさっぱり忘れている補佐。結局ラインでフォローするとか奇麗事言うやつに限って何もしないんだよね。でもって、人が結構あせっているのを空気読めずにのほほんとしている補佐にはいつもいらいらさせられる。

そしてプリプリしながら帰宅途中、父と連絡がついたもののもうそのまま帰ってからいろいろ話して。どうやら熱が高いということを後から聞かされたらしく。

実は熱が39度近くあったんですよ

とか後からいわれてもって感じなんですけど。39度もあるんだったらその時点で呼ばないか、普通。

不信感が募るばかり。

セカンドオピニオン

2008年1月24日
先輩のつてで、大きな病院のセカンドオピニオンを受けられることになった。

今、母が入院している病院はどうも金儲け主義がチラチラして仕方がないところで、延命治療、延命治療ってもうとにかく早く手術はしたがるわ、収容所みたいなところに突っ込みたがるわで不信感でいっぱいだったところにセカンドオピニオンを受けてみてはというアドバイスがあり。

その結果で命に別状がなかったらもう家に連れて帰ろう

そう思っていた。1月の上旬にお願いしていた案件でようやく月末にはセカンドオピニオンを受けられることになって。こういうときに口を利いてくれる人がそばにいるってありがたい。今日は今入院中の病院から検査結果をかりてきて、明日には大きな病院へ持ち込む予定。

さて、どんな結果が出るか。

仲いいですね

2008年1月23日
隣の課の子に言われた。

歓迎します

2008年1月21日
今日から新しい次席がきた。

仲間

2008年1月18日
今日はなんとなく仲良しなアルバイトさんたちとご飯を一緒に食べて。

最後の最後まで

2008年1月18日
今日は次席最後の日だったけど、最後の最後まで好きになれなかったなあと思って。

復習すると

2008年1月17日
昨日飲みすぎて、しかもまた風呂で寝ていたらしく、気がついたら朝の5時で、そこから寝たら案の定寝坊で。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索